迷子の話
月が無い夜は前も見えない。
空一面に広がる星は見えても、あの輝きたちはぼくの足元を照らしてくれない。
踏みしめた土の感触。爪先にあたる木の根にいちいちびくびくしながら歩くのが嫌で、でもそうじゃなきゃ前に進むこともできなくて。
もどかしいのを押し殺すように、心のどっかでわだかまる怖くて仕方ないことから目を逸らすようにして、星の輝きしか見えない夜空をじっと見上げた。
季節の変わり目には、陽が落ちる時間を間違ってしまう時がある。
そんな時に限って歩き慣れた森の道を間違えて、帰るべき城の方向もわからない。
迷子というには果ての見えないこの状況は、半ば遭難に近かった。
散歩に出た。陽が落ちるのが早くなっているのを忘れてた。
……暗くなって迷った。それだけのことです。
アッシュは実家に帰ってていないし、ユーリはぼくがいないことなんてそれほど気にもとめないだろうから、探しに来てくれる人のあてはない。完全に、ぼくは帰る手段をなくしていた。
「……どうしよ」
途方に暮れてそう呟く。頭の中で言えばいいのにわざわざ口に出したのは、自分の声でもいいから聞いていたかったからだ。
僕は、夜目がきかない。夜の支配者であるユーリや、獣の特性を持つアッシュならいざ知らず、ただ透明になれるだけの人間が夜を見通す瞳を持っているわけがない。
灯り一つない森の中じゃ、とっぷりと陽がくれてしまえば足元すら見えなくなってしまう。
ドッチから来たのか、ドッチに行けば正しいのか、ちゃんとまっすぐ歩けてるのか、そんなのもわからない。本当にどうしようもない状況だった。
早く帰ってればよかったとか、どうして季節の変わり目だってことを忘れてたんだろとか、色々後悔は胸に渦巻くけれど、迷った後で悔いたって本当にどうにもならない。
思わず俯けば、そのままごつんと頭が木の幹にあたってしまって、ぼくは苛立ちを交えて声を吐いた。
「ああ、もう!」
すると、ぼくの声はすいこまれるように森の静寂に消えてしまう。ざわざわと風に木の葉が揺れる音がして、ぞくりと背筋が震えた。これならまだオバケが出てくれた方がましだ。
誰もいない、なにもいない、そっちのほうが、ひとりぼっちですごく怖い。
外気に晒した肩が寒くて、ぼくは珍しくコートの襟を引き上げる。ボタンをぷちぷちと止めながら、寒かっただけ、と自分に言い訳をした。
首筋を撫でる風が怖かったからじゃない。
気を取り直して一歩踏み出せば、絡まった草に足を取られて、転んだ。
――朝になったら帰れるんだ。
太陽が昇れば道も見えるようになる。木にでも登れば、きっとユーリの城の方向はわかる。
だけどその朝が来るまで、ぼくは一人で、じっと耐えなきゃいけない。
誰もいない。誰かの息遣いも、声も、気配も感じられない。
まるでひとりぼっちになっちゃったみたいな気分で、ずっと暗闇の中で我慢してなきゃいけないんだ。
それがつらい。
怖い。
もしかしたら朝は来ないんじゃないかって、眠れない子供みたいな妄想が頭をよぎって、首を振る。
第一歩の勢いを転ぶことでへし折られたぼくは、森を歩くのは諦めて木の根元に腰をおろして朝を待つことにした。
コートの襟を寄せ、膝を抱えて座り込む。背中に木の幹が触れていると、それだけで安心した。
身体が少し震えているのには気付かない振り。寒いだけ。怖くなんかない。
朝になったら、ちゃんと帰れる。きっと朝は来てくれる。
でも、もう何時間も、ずっとずっと夜のままじゃないかなって。時間もわからない今、一分一秒がひどく永く感じられて、怖い。本当ならもう夜は明けていて、ぼくだけがこの暗い森の中にいるんじゃないかって。
そんな、怖い想像ばかりしてしまう。
ばか、ばかだ。そんなこと考えるな。怖いことばかり考えるから、余計に怖くなってしまうんだ。
なんにも考えなきゃいい。
朝が来たら帰れるんだって、そう思わせてよ。
どれくらい、そうしていただろう。
膝を抱えて目を閉じて、眠ることもなくじっとしていた。眠るわけがなかった。
頭の中を塗りつぶしてしまいそうな静寂を裂いたのは――草を掻きわける音だった。
ぴくん、と肩を揺らすと同時に、咄嗟に目を開ける。
すると、目を閉じていた時とほとんど変わらない暗闇が目の前にあって、ぼくは自分の肩をぎゅっと握りしめた。
怖い。
けれど、音が聞こえる。草木を掻きわけて進んでいる音。ぼくしかいなかった暗闇の中で、誰かがいる音がする。
獣だっていい。ぼくを食べてしまうような怖いオバケだっていい。
それでも何かがぼくの傍にいるのに安堵して、じわりと滲んだ涙に慌ててぎゅっと目を閉じた。泣くな、泣くなって。
そうこうしている間にも、がさがさという乱雑な音はどんどんぼくの方に近づいてくる。
獣だっていいとは思うけれど、出来れば怖くないものの方がいい。噛まれるのも嫌だな。
テンポよく動く物音は、ぼくが草木を掻きわけて歩いていた時のリズムとよく似ていた。きっとこれは、二本脚で動く音。じゃあ、近づいて来てるのは人間だろうか。ここじゃ獣が二本脚で歩くのもそう珍しくないけどさ。
誰かが、何かがそこにいると思っただけで饒舌になる心にすこしだけ笑いながら、ぼくは近づいてくる誰かの音に耳を済ませた。
結局この真っ暗闇じゃ、ぼくの目は何が来たって、まともにその姿を見ることはできないのだけれど――。
「スマイル」
「……えっ?」
がさ、と物音が止まって。
暗闇の奥から聞こえてきた声に、ぼくは勢いよく顔をあげた。
「……アッシュ?」
「あ、……そっか、スマイルって夜目きかないんでしたっけ。オレっスよ」
「……なんで……」
ぼくが、その声を間違えるわけがない。
でも、だって、あれ? だっていま、アッシュは実家に帰ってたはずじゃ……。
ぼくが呆然としている間にも、さらにひとつふたつと足音が近づいて、ぼくの目の前にぼんやりとした人影が姿を現した。星明かりを頼りにぎゅっと目を凝らせば見える――やっぱり、アッシュだ。
「実は急に仕事が入って、準備しなきゃいけないから慌ててこっち戻って来たんスよ」
「で、でも、なんでこんなとこに?」
「ユーリがスマイルが帰って来てないって言うから。そのまま探しに来たっス」
……ユーリ、ぼくがいないことなんて、気にもしないと思ってた。
それでも探しに来てくれないのは彼らしいけどサ……。なんだろ、ちょっと、恥ずかしい。
「どっか怪我とかしてないっスか? 結構転んだでしょう、アンタ」
「へ、へいき。痛いとこ、ない」
ぼくが今どんな姿なのかはわからないけど、そこらで転んだりぶつかったりしていたぼくは、それなりに薄汚れてしまっていたんだろう。
アッシュはぼくの傍に近づいて膝をつくと、座りこんだぼくの髪やコートを軽くはらってくれた。
その手つきはよく見えないけれど優しくて、ぼくの目元がじわじわと熱くなる。
「立てますか」
「う、ウン」
暗闇の中で立ち上がろうと手を彷徨わせると、その手をアッシュが握ってくれた。
引き上げる力に助けられて立ち上がる。ずっと座りこんでいた所為で、じんわりと両足が痺れていた。
「帰りましょう。ユーリも、心配してたっスよ」
「……ほんとかなぁ」
「ほんとっスよ。それでも探しにいかないとこはユーリらしいっスけどね」
「……それ、ぼくも思ってた」
くすくす、って。ちょっとだけ笑った。
暗闇では足元がおぼつかないぼくの手をアッシュが引いて歩いてくれる。
目の前にぼんやりと見える背中を見失ってしまわないように、じっとその輪郭をなぞっていた。
「……ねえ、アッシュ、どうして探しにきてくれたの?」
「どうしてって?」
「だって、ぼく、ただの迷子だよ。朝がくれば、ちゃんと帰れた」
「まあ、そうなんですけど……だからって、ほっとけないでしょう」
どこかで怪我をして動けなくなってたかもしれないし、帰れない場所までいってしまっていたかもしれない。
……言われて、そういえばその可能性もあったなあって。
真っ暗闇の中を動き回って怪我ひとつしなかった自分の幸運に、ちょっとだけ感謝する。
この森だってずっと平野が続いてるわけじゃない。崖だってあったし、そういう危ない場所はたくさんある。
暗くてひとりぼっちなのが怖くてずっとうろうろしてたけど、こうして無事にアッシュに見つけてもらったのは運が良かったんだって、ぼくはようやく理解した。
「それに、スマイルが怖がってるかなって思ったんスよ」
「……ぼくが?」
「あなた、ひとりぼっちは嫌いでしょう。もしかしたら、泣いてんじゃないかなって……朝になったら帰ってくるだろうって言われたんスけど、ほっとけなかったんスよ」
「……」
……うん。
……うん、怖かったよ。
ひとりって、寂しくて、眠れなくて、怖くて。ずっとこのままなんじゃないかって、子供みたいなこと考えて。
ぎゅっとアッシュの手を握ったら、アッシュはそれを優しく握り返してくれた。
ぼくの手が震えていたことに、気付かないきみじゃあないものね。
「……探しにきてよかった」
「……うん」
ぐす、と小さく鼻を啜る音。
歩く足を止めたアッシュにつられて、ぼくも立ち止まる。
暗闇の中ではアッシュの髪の色もよくわからない。それでも、そこにアッシュがいるってことは、ぼくの目だってよくわかる。
アッシュには全部見えてるんだろうな。恥ずかしいな。
ひとりぼっちが怖くて泣いてる顔なんて、きみが来てくれたことに安堵して泣いちゃってる顔なんて、見られたくないんだけどな。
すこし俯いたぼくを、アッシュが優しく抱き寄せてくれる。
――その腕の中にいれてもらったら、もう、なんにも怖いことなんてなくなってた。
でも、ひとりじゃないんだって思ったら、ほんとに子供みたいに泣いちゃった。
2012.09.18