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残骸への回帰

窓枠に収まりきらないほど大きな月が夜の闇に浮かんでいる。物音一つしない薄暗い部屋の中で音も無く空の一番高いところへと昇る月を見ていると、深い記憶の底から思い出したくも無いものを思い出しそうだった。
(…そんな物、いくらでもあるじゃねえか。)
生きてきた年数だけ生臭い記憶と言うのは存在している。まして国として生まれた以上それは避けがたい現実だった。他の国を食い物にして皆生きている。それは必然なのだ。
イングランドの夜は霧深い。昔硫黄の匂いが漂っていた頃には夜ともなれば何もかも闇に隠れてしまって、一人で出歩くなど死にに行くようなものだった。思い出して、ふと鼻先を草の匂いが掠めた気がして、イギリスは口元に笑みを浮かべた。
アメリカの匂いに似ている。草と大地が太陽の光に目一杯照らされて穏やかな陽気を放つ国に、自分は悲しいほど憧れていた。それを傍に置いて置けるなら、何でもするつもりだった。アメリカと出会ったときは既に戦争続きの身体は疲れ果てていて、アメリカがいなければヨーロッパがこぞって植民地を探していたあの時代に自分は生き残れなかったかもしれない。
植民地という名前の可愛い弟は何時の間にか自分を欲するようになっていた。可愛いアメリカ。お前が望むなら何でもしてやりたいと全身で彼への愛を発していたあの頃、それを受け入れたのは自然なことだった。自分が持っている愛情というものが弟に対するそれでありながら受け入れることを拒否しなかったのはきっと本当に愛しいと思っていたからだ。しかし今となっては、彼を本当に自分の兄弟として愛していたのかも不確かになっている。彼は自分が思うよりずっと傲慢で恐ろしい程強く自分に執着した。自分は、それを知らなかった。育てていた、とはそれこそ、彼の全てを知らないにも関わらず愛していたと思っていたことに加えて傲慢であったかもしれない。ひょっとして彼は自分の前では可愛い弟という仮面を被っていたのだろうかとすら思う。
アメリカがイギリスの家にいる今ですら、訪ねて来るなり一人にしてくれと言われて自分はその通りにしている。音を立てると古いイギリスの家はその音を随分大きく家中に伝わせてしまうので、テレビも付けずに退屈な時間を過ごしていた。刺繍もとうに飽きてしまって、料理などそれこそイギリスにとっては音の発信源にしかならない。することもなくぼうっと外を眺めている間に月が昇り、明かりをつけないまま部屋は闇を迎え入れていた。
「イギリス。」
背後から低く囁きが空気を滑ってイギリスの耳に届いた。もう一人で居るのは飽きたのだろうかと、昔そうして一人で遊んで居たがった子供の頃の彼を思い出す。
「何だ。」
しかし背中の向こうにいるのはすっかり成長しきったアメリカなのだということを思い出して、イギリスは振り返ることを躊躇った。精悍な顔に正義を謳う言葉は不自然な程に似合う。屈強な体躯は到底自分の力でなどどうこうすることはできない。そういう青年が、既に居るのだ。
「…こっちを向いてくれよ。」
「何だよ。」
躊躇ったことを隠そうと普段の自分を演出しようとしたする余り、妙にひねくれた声が出た。アメリカはそれを不自然だとは思わなかったようで、自分の肩に置いた両手はそのままだった。見上げると、ぼんやりとした月の光に照らされたアメリカの顔が自分を見下ろしている。
アメリカはどうして自分に構わないのかと不満そうに漏らし、それに答える言葉が見つからなくて、イギリスは本音を吐いた。それしか、言葉は無かったのだ。
恋人、とアメリカはよくその言葉を使いたがった。しかしその響きが空虚を曝していると感じたのは自分だけだったのかもしれない。
(…知らない。)
何も、知らなかった。誰も傍にいなかったのだ。生まれたときから周囲は敵ばかりで、戦って生きてきた。愛する人間などいなかったし、その時代その時代に、貧しい島国が生き残るには愛だの恋だのと言っている暇は無かった。―そしてやっと出会った弟は、自分を見捨てた。
(アメリカ。)
今では、他愛無い言葉を交わすぐらいしか彼に触れる方法が解らないでいる。心の中で張り裂けそうな声で名前を呼んでいるのに、それを本当に唇から吐き出すことができない。
直視できていない、とイギリスは唐突に今の自分の状態を悟った。自分は未だに、アメリカのあの可愛い弟の姿を重ねている。今の彼を認めたくないのだ。そしてまた見捨てられるのではないかと、近づいて愛されることに怯えている。古い記憶と戯れている方が心地よいのだと、心の隅で本当は思っていたのだろう。大きな両手で自分の両頬を包んでいる青年より、足元に纏わり付く小さな子供を求めているのだ。
あの子供なら絶対に自分を裏切らない。あの頃のアメリカしか信じられない。お前は俺を一度裏切った―そして俺を、愛してるだなんてのたまう。お前を心から愛することなんて、できない。
アメリカの手の温度を感じていながら、心臓は早鐘を打っていた。内心のこの烈しい、しかし冷え冷えとするように明確な答えを、アメリカに伝えられるほど自分は強くない。捨てられたくないともまた、思っているのだから。アメリカに突き放されるなど想像もしたくない。
「…一人でいたかったのは、別に君が鬱陶しかったからじゃないんだ。…君が俺の政策に賛成してくれたのは嬉しかったし、これで俺は孤独に戦わなくてもいい。それはいいんだ。…でも、君は知ってるだろ?俺はヒーローなんかじゃない…戦う決断の裏には、絶対に汚い欲望があるんだ。…知ってるだろう…?」
卑怯者、とイギリスは自分の顔に唾を吐きたかった。お前はアメリカを欺いているじゃないかと。
俺を見捨てるなと縋って、可哀想なアメリカと思って脆弱さを見せる彼を受け入れる。そして何もかも受容するふりをして、愛せないと本心では拒絶している。
お前こそ彼を裏切っている。
その弱みがあるから、きっと自分はアメリカを留めることなどできないだろう。謝り続けながらどこまでも彼と共に進む想像は容易く思い描けた。
宥めすかすようにアメリカに、お前の苦しみは解る、何があっても一生ついていくと言って、イギリスはその場を受け流した。キスをした後アメリカはシャワーを浴びてくると言って、部屋を出て行った。取り残されたソファの上で、イギリスは泣いた。自分の裏切りにおののき、唇を震わせて涙を流す姿はきっと空に浮かぶ月にしか晒せないだろう。今しがたまでアメリカが座っていた場所に手をついて、突っ伏して寒さに凍えるように息を吐き出して、イギリスは泣き続ける。頭の中を巡る今までアメリカと過ごした記憶は愛しすぎた。
孤独だ。静寂の中、孤独が青黒い闇になって自分に迫ってくる。無音の世界が自分を押し潰そうとしている。思考をきりきりと締め上げて、力ずくで握りつぶそうと、嬉々として頭を侵食する。
何も考えられないと、イギリスは泣くことを止めた。どこへ進めばいいのか全く解らなくなっていたに違いない。宙ぶらりんのまま足元はおぼつかず、立っていることすらできない。静かな孤独に思考は弾け飛ばされてしまって、イギリスは虚ろにソファに倒れこんだ。
還ろう、と誰かが囁いた。それは自分の声だったが、イギリスは最早それすら解らない。懐かしい記憶を手繰り寄せて、そこに還ろう。あの短い年月、自分は確かに倖せだった。幸福へ回帰するだけだ。何もかも忘れて、そこに戻ればいい。
遠くで、ドアが開く音がする。イギリス、とアメリカが名前を呼んでいる。それに返事をすることもなく、イギリスは目を閉じた。






2009/01/31