莫迦な男。何もできないくせにただ虚勢だけ張って、格好ばかり気にして― 「何の用?」 日の暮れ掛かった教室で、あたしは目前で机に肘をついて手の甲に顎を乗せている忍足にそう返した。「ちょっと話したいんやけど。」とあの低い静かな声で、真剣な顔で言われては断る理由も無くなってしまう。 「…明日の試合、観に来て。」 「何、突然。」 前髪を指で梳いて整えてから、あたしは忍足の目を見る。忍足は眼鏡の奥から切れ長の目をじっとあたしに留めている。 「俺、シングルスやねん。次の試合、一回、前に負けてるところとでな。俺今までダブルスやってん。やから…。」 嗚呼、と何か引っかかっていたものが外れてしまったように、あたしはすんなりと忍足の考えていることの予想がついた。 「不安なの。」 「…ちゃうよ。俺が一人で試合してるとこ、ごっつカッコええと思うねん、観に来て?」 にっこりと、忍足は頬杖をついたまま、多分多くの女子の目を惹き付けてしまうような仕草で笑った。勿論あたしも例外ではなく、顔に出さないだけで内心ではあたしもドキドキと煩くなった心臓を落ち着けようと必死だった。 「…別にいいけど…。」 あくまで冷静に返すと、忍足の顔が苦笑いに変わる。 「ほんま、愛想の無いやっちゃ。」 頬杖を止めて、忍足は立ち上がって窓際に立つ。あたしは目でそれを追って、薄赤く焼けた空に照らされた忍足の横顔を見ていた。 「…ねえ。」 「ん?」 空からあたしに目を移して、忍足が僅かに首を傾ける。 「本当は、怖いんでしょう。」 「何が。」 「試合よ。」 この前、確かうちの学校のテニス部は青春学園とかいう余り強くないと下馬評に上がっていた学校に負けて、全国大会への切符を逃してしまった。けれどやはり、それまでの実績は助けになったようで、開催地枠というたった一つの椅子に、うちの学校は割りとあっさりと納まったのだった。 余程悔しかったんだろうなと、あたしは開催地枠で全国大会への出場を決めた日から今日までのテニス部の練習風景を思い出しながら考える。負けるはずが無かった学校に負けて、勝つはずだった試合を逃して。あれからまた一回り痩せた忍足を見れば、覚悟の程は痛いぐらいに分かった。 「怖い訳無いやん。」 忍足の頬が緩む。嘘。じゃあどうしてわざわざ、あたしに試合に来いなんて言うの。そう言うと忍足は、まだ誤魔化そうとする。 「に、見て欲しいなって思ったんよ。」 莫迦な男。何もできないくせに虚勢だけ張って、格好ばかり気にして。不安も何もかも自分で解決できると思ってるんでしょう。絶対、自分だけで全てに打ち勝てると思ってるんでしょう。 あたしは忍足が好きだったから、何となく、見ている内に忍足の性格も分かっている気になっていた。そして多分、それは少なからず当っていただろう。忍足は格好つけたがりで、常に優位に立っていたがる男なのだ。弱みを見せたくない、強くありたい人間。多分、弱い部分を晒すことに自分でも耐えられないのだろう。だからポーカーフェイスも得意だし、あまり声に抑揚も現さない。それでも、それはテニス部の部員、特にレギュラーに対してはそうでもない。それはダブルスを組んでいた向日君とのやりとりや跡部君とのやりとりを見ていれば、分かるような気がする。忍足は、テニス部の仲間と居るとき、あたしと話すときなんかよりもずっと多く笑い、泣き、たまには怒り、そして穏やかな顔をしていた。 「…馬鹿。怖くない訳ないじゃない。何でもそうよ。一度負けた相手に挑むのが、怖くない訳無いわ。」 断言したあたしに、忍足は何も言い返さなかった。ただ顔を和らげたまま、壁に寄りかかって窓を横にして腕を組む。ラケットを自在に操るための筋肉がついた腕はすらりとしていて、強靭さが傍目からでも覗える。腕から視線を忍足の目に遣ると、忍足は少しだけ、眉根を寄せていた。 「かなわんなあ。」 そして、そう言ったのだ。 もしあたしがテニスをしていたら、忍足はこんなことを言わなかったかもしれない。あたしがテニスを全く知らないから、心の内を吐露できたのかもしれない。そう考えてしまうのはあたしがあたしを、テニスに関わっている人間と同じように忍足にとって特別な存在にしたいからだろうけれども。 怖いなら怖いと、テニス部の誰かに言うだろうとも思う。でも多分、忍足はそれをしない。今まで共に歩んできた仲間だからこそ、見せられない部分というものもあるだろうから。 「…ほんまは、怖いんよ。試合。…は、凄いなあ。何で分かったんやろ、俺が思ってること。」 ―だから、忍足がそう言って自分の脆さを垣間見せたときあたしはこの馬鹿で愚かな男の全てを受け入れたいと思った。受け止めてあげたいと思った。全部全部、あたしに暴露してよ。晒して頂戴。あたしが何もかも受け止めて、全部全部、消し去ってあげるから。それは傲慢かもしれなかった。でも、あたしが思いつく限りの、忍足への想いを表す言葉に違いなかった。それしか、分からなかった。忍足の不安を取り除く方法が。 受け入れて、抱きとめて、労わるとか、慰めるとか。精一杯誠実に接するぐらいしか、あたしには思いつかなかったのだ。 「忍足。」 あたしはゆっくりと、自分の心の中を言葉にして紡いだ。 「あたしが、ちゃんと見ててあげるよ、忍足の試合してる姿。テニスをしてるところを、全部見てる。だから、戦っておいでよ。どんな無様な負け方しても、褒めてあげる。…よく頑張ったねって。」 あたしの考えられる最大の、忍足への気持ちを出来うる限りの優しさと激励の気持ちで包んだ言葉に、忍足は、おおきに、とまた静かに言ったのだった。 夕日に照らされた忍足の顔が、真っ直ぐ、あたしを通り越して窓から見えるコートに向かう。鋭い、ともすれば冷徹とも思える視線を四角く区切られた空間に注いで、何を考えているのか暫くそうしていた。滑らかな頬を話し始めたときよりも濃くなった夕日の色が赤く染める。そしてやっとあたしがまだ居ることに気づいたように忍足は、微笑むのだ。みんなは、怖くないんやろか。そんなはずないよな。今度負けたら、もう道は無いんやし―勝たな、あかんのやから―。 きっと、今彼はぐらぐらとした心を抱えて必死に明日の勝利の幻影を思い浮かべているだろう。ただそれに向かって走るのだと、自分を追い立てているだろう。負ければ後は無い。最後のあの勝利の味をまた噛み締める為に、今までの練習の全てに報いる為に、勝つのだと。あたしはそれを考えるとどうも口を開けなくて、つき合わせてごめんなと言う忍足に頷くので精一杯だった。忍足はもう、明日のことに集中しているのだ。邪魔しちゃいけないよねと言わんばかりに、あたしはその後すぐ家路に着いた。 次の日、あの猛暑の中、忍足はちゃんとあの腕に勝利を掴み取ってきた。大勢の部員や観客から少し離れていたあたしに向かって、コートから出た忍足は汗だくの手を振った。その振り方もどうも格好をつけているようにしかあたしには思えなくて、あたしは小さく、ただ手を上げるだけの合図を返した。 忍足の試合も終わったし、と猛暑の中ずっと立ちっぱなしで居たあたしは帰ろうかどうか悩んでいた。できることならテニス部の試合を全部見て行きたいところだけど、どうやら体調があまり思わしくない。暑過ぎるのだ。とりあえず一休み、と近くにあったベンチに座る。そこからは氷帝が今試合をしているコートの全景を観ることができた。次の試合が始まる前の雑然とした空気がコートの周囲を取り巻いている。応援団の打ち合わせの声、女子生徒たちの勝ったね、という喜びのざわめき。試合を見守っていたテニス部員たちの勝利からの興奮。 (忍足。) あたしは密かに、昨日あれだけ弱弱しくすがり付いてきた男に呼びかけた。 (これは全部、忍足がもたらしたものだね。) おめでとう、とあたしは小さく呟いた。 ふとコートの端に目をやると、見慣れた黒い長髪があたしに駆け寄ってくる。立ち上がってそれを迎えると、忍足は柄にも無く満面の笑みを浮かべていた。 「見てた?」 「見てたよ。」 「勝ったんやで、俺。」 「うん。おめでとう。」 「おおきに、昨日…。」 まだまだ言いたいことがありそうな忍足の背を押して、あたしは彼の身体をコートに向けさせた。皆が試合を終えてすぐコートを出た忍足に注目していることにこの男は気付いて無いらしい。 「おめでとう。ね、ホラ。皆待ってるから、行っておいでよ。今度また、全部聞かせて。」 半ば強引に忍足をコートに向わせて、あたしは取って付けたように「具合悪いから帰るね。皆に頑張ってって、言って。」と忍足の背に投げかけた。忍足は顔だけ後ろを向いて、気を付けて帰れよ、と言った。 帰るね、と言った手前いつまでも居る訳にいかない。あたしはまたもや、忍足から逃げるように、人の群をはぐれて、その場を後にした。 忍足は、次に会ったときに何て言うだろう。あたしは多分、おめでとう、とまた繰り返す。頑張ったね、と笑う。それでいい。 あたしは怖くなってしまっていた。忍足は人に頼らなくたって充分にテニスを続けられる、試合で勝てる男で、ちゃんと自分を奮い立たせることができるではないかと。昨日の自分が余りにも傲慢で、恥ずかしい。支えてあげたい、なんて、そんなこと彼には必要無いのに。 家に着いてすぐ、あたしはシャワーを浴びた。汗でべとついた肌に生ぬるいお湯を滑らせて、暫く頭から湯を被って立ち尽くす。目の前の鏡には十人並みの普通の女が水に濡れて馬鹿みたいに立っている様子が映っている。 嗚呼それでも。あたしは昨日、忍足に対して嘘の無い、全て純粋な心の内を伝えたのだ。 それは自分を慰めるどころか、かえってあたしを臆病にしてしまった。もしあれが忍足に何の感慨も呼び起こしていなかったら?もしあれが、忍足にとってただ鬱陶しいだけだったとしたら? 結局あたしは忍足にとっての特別な人間になりたかっただけなのかもしれない。 その結論が出ると、あたしはキュッとシャワーのコックを捻ってお湯を止めた。 なんだ、自分のエゴだったのか。 妙に冷めた気分で鏡に映る全裸の自分を見つめる。前向きで無い、その鬱々とした結論はあたしの気分をとことん落ち込ませた。考えても、無駄なのにね。 (忍足にしか答えは分からないのに、ね。) 髪の毛を洗って身体を洗って、顔を洗って。シャワーを浴びながらの一連の動きの中、あたしはそればかり考えていた。 具合が悪いと言って帰って行ったの後姿を、俺は後を追って走り出したい気持ちを抑えて見送った。言いたいことがたくさんあって、今本当に嬉しいのだという気持ちも伝える事無く、俺はコート脇へと戻った。 昨日、俺は、多分本当にからの言葉を欲していた。なら、俺が言ったことに対して誠実で、心からの想いを込めた言葉を返してくれると思った。だからに言ったんだ。明日の試合を観に来てくれと。俺の本心に気づかないならそれでもいいとは思っていた。頑張って、とから言われるなら疑いもせずそれをすんなりと受け入れられるだろうから。は概してそういう女だった。口先だけの言葉を発することが苦手な、場合によっては人に鬱陶しがられるかもしれない部類の人間だ。どこか冷めた風でもあるのは、自分の本心をどう表せばいいのかじっと考えるからだろう。深く深く考えてしまうから、周囲から少し浮いてしまう。曖昧に笑ってその場をやり過ごそうとするときもある。でも、人が本心からぶつかるときには自分も本音で返す。 『本当は、怖いんでしょう。』 ああ、そうや。怖い。怖くて怖くて、足が震えるぐらいだ。夕日の差す教室で俺はと向き合っていながら、怯えを隠そうと必死に表情を作っていた。できることなら、が目を離せない程の真剣さとか、そういうものが浮かんでくれやしないかと願う程に。 でもそれは無駄だったかもしれない。は俺が、自分に縋っていることに気付いてしまった。 (…助けて欲しかったんよ。) 自分を奮い立たせる為の、他人からの言葉が欲しかった。全部見ていてあげるよ、と言ったはそれをわかっていたんだろうか。 この恐怖や不安や怯えですら、全て受け入れるよ。だから、大丈夫。 全部、見ていてあげる。 それは確かに、俺に安心をもたらしたのだった。 が俺を受け入れてくれたから、俺も自分の暗い負けることへの恐怖を受け入れられた。に自分を投影して、確かに俺はそれを払拭することができた。脆いアンバランスな、勝利への渇望と不安に押し潰されそうだった昨日、俺はに掬い上げられたのだ。 それを言い出すのを俺は躊躇していた。が俺の期待を裏切ったらと思うと、裏切られたくない余り何も言わずに置こうと考えることもあった。けれど蟠っているのでは俺は自分の不安で自分を潰してしまうかもしれない。 勝ちたかった。勝たへんと、ずっと同じ場所に居らんといけんようになる。上に行きたい、そう思うんは当たり前や。 やけどそこに―コートの中に一歩踏み出すことがこんなに怖いとは今まで思わなかった。 の言葉が、背中を押したんだ。ラケットを持ったままラインの外側でネット越しに相手を睨む、それに精一杯だった俺を。 氷帝は負けた。俺達は部活からの引退が決定して、跡部は日吉に部長を引き継ぐことになった。俺は勝ったけど、チームの負けは心に重くのしかかっていた。全力を出し切ったはずなのに、喪失感だけが心に居座っている。もう朝早く起きて、眠い目を擦ってコートに向わないでいいかと思うと、嬉しいのか悲しいのか分からない。やって俺達は、雨が降ろうと暑い日差しが照りつけようとラケットとボールさえあれば、良かった。それだけ、テニスが好きだった。 分かってくれるんやろかと俺は全国大会で負けた日、レギュラー達と騒ぎながら家路に着いているときに思った。俺はテニスが好きだけど、でも俺を試合に向わせたのはその思いだけじゃない。今までの練習とか仲間とか、そういうものと同時にの存在もあったんだと。 俺の試合が終わったとき、どうしてが俺とろくに会話をせずに帰って行ったのか、ずっとあのときから留まっていた問いの答えを俺は探し始めた。 あのとき俺はからの、もっと多くの言葉を期待していたし、だから余計にあのの行動はショックだった。体調が悪いと言ってはいたが、それ以外に理由があるのではないかと疑りたくなってしまう。 (俺もほんまに阿呆やなあ。) 多分考えたってにしか答えは分からないと俺は考えて今日は何も考えず身体を休めることにした。のことを考えると自然と部活やテニスのことを考えてしまって、自分の中の喪失感が大きくなっていく気がする。でもなあ、と俺は一緒に暗い道を歩いているメンバーを見つめる。どうせ高校に行っても、こいつらと一緒にテニスをしているんだろうな。そう思うと楽しいんだか嬉しいんだか、今日の負けも次に繋げようと前向きになれる。そうして楽観的な気分になって、俺はゆっくりと心を固めていった。 明日、学校に行ったら言おう。の言葉がどれだけ大きな力を持っていて、お前がどれだけ俺にとって特別な存在か。そう言ったら、彼女は笑ってくれるんだろうか。 好き、とか、そういう言葉はまだ取っておこう。それを言うのはまだ先でいい。今はただ、言わずには居れないほど多くの感謝の気持ちを伝えるだけでいいだろう。 それを伝えるだけでも、俺はまだ精一杯だから。 アトガキ …なんかもう…本当ごめんなさい…。 次の日学校であったことはご想像におまかせしたいです。おまかせします。 ここまで忍足に想われるなんてすんごい倖せだ…!わー!この話の忍足ってヘタレ! 沙雪さまへ!忍足氏を理解して包み込んでくれる大人で対等なヒロインとのお話、というリクエストでした。頑張った跡が何か…見えないかもしれないです…ごめんなさ…!でも頑張った!(何)リクエストありがとうございました!! 2008/03/25 |